写真と映像を通じて、
あなたの想いに寄り添う
あなたにとって、写真や映像はどんなものですか。
僕がカメラの世界に興味を持ったきっかけは、
自分の「思い出」を残すということでした。
その写真、映像を見れば、
その時の情景が五感を通じてよみがえってきます。
今、そのカメラを通して僕は、皆さんの「想い」を
残していきたいと思っています。
「想い」を伝える手段は、様々ありますが、
残すことができるものは数少ないと思っています。
写真、映像では、それができるのです。
想いを残すというのは、
人・もの対して。情景・気持ち・言葉を残す。
という風に様々あります。
あなたの残したい想いはなんですか。
僕のカメラであなたの光を映し出し、
そのお手伝いをさせてください。


高校2年生の夏、アルバイト3か月分ぐらいで
貯めたお金で一眼レフカメラを買いました。
ちょうどその時、同じクラスの仲の良い友達が
モデルをしており、作品撮りなどをする機会が
よくありました。
また、一人旅で東京や長崎、岐阜など
様々なところにも行くようになり、
風景写真なども撮るように。
そんな積み重ねもあり、写真、映像を仕事に
したいと思うようになりました。
大阪芸大へ進むもうつになり、
2か月で中退
しかし、高校の終わりごろに
うつ病に罹ってしまいます。
原因は高校生活を振り返った時に、
友達つくることを避けて学校生活に
向き合ってこなかったことに対する、
自己・他者肯定感の低下でした。
大阪芸術大学映像学科に進学するも
うつ病が悪化。
心療内科にて社会不安障害、うつ病を
正式に診断され、
2カ月で大学を中退してしまいました。
当時は何に、誰に頼ればいいかもわからず
ただただ苦しく、絶望の日々でした。

カメラと両立して、障害福祉の道へ
うつから双極性障害に診断が変わり、
心身の波が安定せずアルバイトを転々と
していたころ就労移行支援に出会います。
就労移行支援とは、簡単に言うと
「障害を持った方の就職活動を支援する
福祉サービスの一環」です。
ここに通い徐々に自己・他者肯定感を
取り戻していき、体調が安定してきました。
その結果、面接に合格し通っていた
就労支援にてアルバイトからですが
支援員として働けることになりました。
副業カメラマンとして映像や写真の
お仕事も少しずつ入ってくるようになり、
友人とバンドを組み自分たちで
MVも制作するなど、とてもいい傾向には
ありましたが、長くは続きませんでした。

障害福祉を契約更新できずに辞める
支援員の仕事が忙しさを増していき、
キャパオーバーになり2度の休職。
正社員登用を目指していましたが、
契約打ち切りになってしまいました。
躁状態の時にトラブルを起こしてしまい、
バンドも解散。友達も多く失いました。
とあるフォトスタジオに拾っていただいたり、
キッズフォトスタジオでアルバイトをするも
どれも長くは続かず、カメラマンを諦めて
正社員を目指すも、
「正社員経験無し」「大学中退」「精神疾患持ち」で雇ってもらえるところも無く、
30~40社応募してすべて落ちました。
その年は生活保護にもなり、
2回オーバードーズをして自殺未遂を図り、
緊急搬送されてしまうなど、
生きていくことへの希望が見つかりませんでした。

フリーランスとして自立していく
たくさんのものや人を失っていっても、
僕にはかろうじて残っているものがある。
それは、高校時代から10年間一度も
手放したことのない、カメラでした。
「僕にはこれしかない。」
と自己表現や、残っている繋がりでの
撮影依頼を大切にしていきました。
すると、それがひとつずつ芽を出していき、
プロモーションビデオやミュージックビデオ
などの、大きな案件につながっていきました。徐々にフリーランスとしての依頼も増えていき、
今では、私立学校や大手音楽レーベルの案件
もいただけるようになりました。

大きな希望をもって
自分のテーマを表現しつつ、
カメラマンとして活動していく。
今でも躁うつの波がきて、
生きづらさを感じることは多々あります。
それでも生きていくことを諦めず、
自己表現や繋がりを大切にしていった結果、
たくさんの方に支えていただきながら、
カメラマンとしての活動を
続けていけることになりました。
「苦しさを知って、優しくなれる」とは
よく言ったもので、
痛みを知っているからこそ、人に寄り添い、
カメラを通してその方の想いを表現できると
思っています。
これからも僕だからこそ見出せる光を、
対話やカメラを通じて
見つけ出していきたいと思います。
